私はヘンリーを見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「しばらく……この家にいる?」
「うん! 流華、ありがとう!」満面の笑みを浮かべたヘンリーが、勢いよく私に抱きついてきた。
お風呂上がりの温かな体温がじんわり伝わってくる。
祖父に抱きしめられて以来の、久しぶりの人肌の感触。心臓が、ドクンと跳ねた。
こんなに人のぬくもりって、気持ちよかったっけ?
ヘンリーの腕の中が居心地よすぎて、私は不覚にも、ずっとこのままでもいいかも……なんて思ってしまう。ふいに、顔が熱くなっていくのを感じた。
「お嬢……もう……俺は、無理です」
「え? ちょ、龍っ」慌てて龍の方を見ようとするけれど、ヘンリーの腕に遮られて振り向けない。
次の瞬間――
ドゴッ!
龍の一撃が炸裂し、ヘンリーは弾き飛ばされて、部屋の壁に豪快にめり込んだ。
「ヘンリーっ! 龍! ちょっとは手加減しなさいってば!」
私は思わず声を荒げる。
けれど龍は無言で立ち尽くし、まるで何もしていないかのような顔で、そっぽを向いていた。私は再び、壁に埋もれたヘンリーの元へと駆け寄る。
「……大丈夫? ごめんね、何度も……」
そっと抱き起こすと、彼の浴衣は少し乱れていた。
ちらりと覗く白く滑らかな肌に、私は思わず目を奪われる。顔が、熱い。
そんな私の反応を見て、ヘンリーはくすっと笑った。
「本当に、君は可愛いね。
まだ何も知らないの? 僕が教えてあげたいな」その甘い声に、ますます顔が火照っていく。
……それより、まずい。
龍の殺気が、部屋中にみなぎってきている。私は咄嗟に身を翻し、ヘンリーを背中で庇った。
「龍、駄目よ、まって!」
「そうだよ、龍さん。いくら流華が可愛いからって独り占めはよくない」 「なっ……」その一言で、龍の表情が真っ赤に染まった。
瞳に怒りを宿し、拳を握りしめた彼が、今にも飛びかかりそうな勢いで震えている。まずい、このままじゃ――!
と、思ったそのとき。
背後から、ヘンリーがそっと私を抱きしめてきた。
「ちょっ、ヘンリーっ!」
振り返ろうとした瞬間、彼の顔がすぐ目の前に迫ってきて――
唇が、重なった。
……え?
時間が止まる。
温かな感触。優しい香り。胸の奥で、何かが柔らかく震える。
でもこれは、ただのときめきなんかじゃない。
もっと深くて、懐かしくて、切ないような―― そんな感情が胸にあふれてきた。忘れていた、大切な何かを思い出すような気持ち。
唇が離れたあとも、私はしばらく彼の顔を見つめていた。
ふと、我に返って龍の方を見ると――
龍は、その場にへたり込み、虚空を見つめたまま動かなくなっていた。
完全に意識が飛んでいる。
……助かった。いや、ある意味いろんな意味で危なかった。
「ヘンリー、こういうこと簡単にしちゃ駄目だよ。
あなたは王子だからわからないかもしれないけど、キスって……もっと特別なことなの」私は思わず視線を逸らす。
王子様って、そういう常識通じないのかも。
いくらなんでも、初対面でキスって……。でも、あんなふうにされて――嫌じゃなかった自分に驚く。
私は戸惑いながら、そっと唇に手を当てた。
「僕はもしかして……この世界に、君を探しにきたのかもしれない」
ヘンリーは、あどけない笑顔で、けれどどこか確信めいた瞳で、まっすぐ私を見つめていた。
やっぱりダメ、気になってしかたない! ついに我慢できなくなった私は、とうとう奥座敷へと向かった。 足音を忍ばせながら、そろりそろりと近づいていく。 でも、あまりに近づきすぎると気づかれそうで……。 奥座敷から少し離れた廊下の曲がり角。 その陰に身をひそめ、そっと耳を澄ます。 小さな声しか聞こえないけれど、内容はどうにか拾える。 私はその場に落ち着き、静かに息を殺した。 「果歩さんは、あの真司さんの妹だそうですね」 龍の声だ。 声だけで胸がときめいてしまい、そんな自分にあきれる。「ええ……それが何か、問題でも?」 果歩さんの声。 声まで可愛らしい。 まるでそのまんま、見た目通りって感じ。「いえ」 龍の返事のあと、少しの沈黙が訪れる。「……あの、私のこと覚えておられませんか?」 果歩さんの声が、どこか期待に満ちている。「はあ……どこかでお会いしましたか?」「ええ。以前、男性に絡まれていたとき、助けていただきました」 なるほど。 そのとき龍に惚れた、ということか。 ……わかるけど。 龍は強いし、颯爽と相手を蹴散らす姿は、きっと格好良かったんだろうな。 戦う龍の姿が脳裏をよぎった。 しばしの沈黙。 どうやら龍が思い出そうと考え込んでいるらしい。「……そんなことも、あったかな? すみません、覚えてなくて」 龍の言葉に、果歩さんはショックを受けたのか、また静かになった。「いえ、いいんです。 私が勝手に、あなたのことを忘れられないだけですから……。 あのときの龍さん、すごく素敵で目が離せませんでした。 強くて、優しくて……こんな方に、人生の伴侶になってもらえたらって」 えっ!? 私は驚いて思わず手で口を押さえた。 たった一度会っただ
ど、どうしよう! 私は咄嗟に隠れようと一歩を踏み出す。 が、何かに足を取られ、そのまま思い切りすっ転んだ。 よりにもよって――みんなの目の前で。 盛大なこけっぷりに、皆の動きが止まる。「いたた……っ」 膝をさすりながら、そっと顔を上げる。 皆の視線が、じっと私に注がれていた。 や、やっちゃった……! よりにもよって、こんなときに! 顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて、その場から動けなくなる。「大丈夫ですか!? お嬢っ」 龍が慌てて駆け寄り、手を差し出してくれる。「あ、うん、平気平気。ごめん、ごめん」 私は慌てて立ち上がるけど、恥ずかしさでまともに顔を上げられない。 まさに穴があったら入りたい、とはこのことだ。 そのとき、祖父の傍らに立っていた女性と目が合った。 お人形のように可愛らしい女の子だ。 艶やかな着物がとても似合っていて、私は自然と目を奪われた。 淡い桃色に花が散りばめられた生地。 さらりとした長い黒髪に、ぱっちりとした瞳。 長いまつげがその大きな目を際立たせていて、整った鼻に、小さな口元。 唇には、ほんのりとピンクのグロスが光っている。 ……可愛い。 思わず見惚れてしまう。 この人が、相川果歩さん――。「お嬢、気をつけてくださいね。本当にそそっかしいんですから」 龍は苦笑しながらも、その瞳は愛おしげに私を見つめている。 私は恥ずかしさに顔を赤らめたまま、何も言えずに笑い返した。「ささ、果歩さん、こちらへどうぞ」 祖父が果歩さんを奥座敷へ案内していく。 すれ違いざま、果歩さんはずっと私のことを見つめたままだった。 その瞬間、ふわっと甘い香りが鼻先をかすめる。 ……女の子らしい、可愛い香り。 彼女によく似合っている。 私はただ、その
それから数日が経ち……。 まあ、なんてお見合い日和なんでしょう。 縁側に佇んだ私は、雲一つない青空をにらみつけた。 日差しは暖かく、ぽかぽかとあたたかい。 今日は、龍のお見合いが行われる日。 どうせなら、曇ったり雨でも降ってくれた方が少しは気分も晴れただろうに。 私が大きくため息をついた、そのとき――。 ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。 その音を聞いた瞬間、私は勢いよく玄関の方をにらむ。 来た!「では行きますが、ご心配なく」 スーツ姿の龍がネクタイを直しながら、私の方へ近づいてくる。 そして、そっと顔を覗き込み、優しく微笑んだ。 ……なんだか、ドキドキする。 いつもと違う龍。 大人の雰囲気が漂っていて、ダークグレーのスーツがとてもよく似合っている。 白いシャツに、深みのあるボルドーのネクタイが映える。 龍は何を着ても似合うけど、スーツを着ると大人の色気が増す。 私は思わず見惚れてしまい、固まった。 格好よすぎて、緊張するじゃない……!「お嬢……どうされました?」 龍が不思議そうに首を傾げる。「ううん、何でもない」 慌てて首を振り、気持ちを落ち着ける。 でも今度は、違う感情が湧いてきてしまう。 ――嫉妬だ。 こんなに格好いい姿を、他の女に見せるなんて、嫌だ。 けど、お見合いなんだからしょうがないよね。 我慢だ、我慢。 ……そう思ってみても、あふれる思いは止められなかった。 私はふくれっ面のまま、龍に思い切り抱きついた。 はじめは戸惑っていた龍も、しばらくすると私の頭を優しく撫でてくれる。 なんだかほっとして、余計に愛しさが溢れだしてきた。 龍を離したくなくて、私はさらにぎゅっと彼を抱きしめた。 わずかな時間、私たちは黙ったまま熱い抱擁を交わした。
「龍、頼む。わしの親友の頼みを聞いてやりたいんじゃ。 一目だけでいい、会ってやってくれんか?」 龍と祖父の視線が交わる。 ……やばい、これは雲行きが怪しくなってきた。 私は焦って龍に声をかけようとした。「ねえ、龍――」 けれど、その言葉は途中で止まった。 だって、私を見た龍の表情がすべてを物語っていたから。 ごめんなさい、と。「お嬢、申し訳ありません。 一度だけ許してくれませんか? 会うだけですから」「龍……」 切なそうに見つめる龍を見ていたら、もう何も言えなくなった。 今回は、彼の優しさが仇になってしまった。 ていうか、この展開……前に私がやった、反対バージョンじゃない! なんで、またこんなことになってんの? 一人でモヤモヤと悩む私に、龍が微笑みかけてくる。 大丈夫、とでも言いたげに頷くと、彼は祖父に向き直った。「……わかりました。一度会うだけです。すぐにお断りしますから」「ほんとか!? ありがとう、龍。恩にきるぞ!」 祖父は嬉しそうに軽く飛び跳ねると、その場でいそいそと電話をかけはじめる。 きっと相川さんに報告するのだろう。 ……本当に調子がいいんだから。 祖父をじとっと睨みながら、頬を膨らませた。 私に続いて龍まで……なんでこうなるの? 肩を落とし落ち込んでいると、龍がそっと私の耳元に顔を寄せてきた。「お嬢、本当に申し訳ありません。あなたには辛い思いをさせてしまうことに……」 悲しそうに眉を下げる龍。 彼もかなり意気消沈しているみたいだ。 そうだよね、龍だって辛い……。 龍は優しいから、おじいちゃんのことを想ってくれたんだよね。 私はそんな彼を励まそうと、懸命に笑顔を作った。「大丈夫、私、平気だよ。 龍だって、相川さんのこと耐えてくれたんだもん。私も耐えてみせる」
無事に一波乱去った、と思いきや、また波乱の予感。 それはまた、祖父が連れてやってきた。 いつも通り夕食を食べ終えた私は、一息ついてお茶を飲んでいた。「龍、今度はお前にお見合いじゃ」 机を挟んで座る祖父が、にこりと微笑み、そう告げた。 居間に一瞬、凍りつくような静寂が流れる。 そして次の瞬間、私の叫び声が響き渡った。「ど、どういうことよ!」 いきなり告げられた衝撃のセリフに、頭が真っ白になったが、すぐに正常に戻る。 私は勢いよく祖父に詰め寄ろうとした。 しかし、祖父は私の行動を先読みしていたのか、するりとかわして龍の前へと移動する。 口をぽかんと開けたままの龍の前に立ち、祖父は胸を張って堂々たる眼差しを向けた。 どうだ、と言わんばかりに。 しまった! ちっ、先読みされたか……。 私は祖父を睨んだ。 そのとき、ようやく我に返った龍が、慌てて声を上げる。「い、いったい、どういうことですかっ?」 龍は祖父の威圧感に押されつつも、怯むことなく真剣な眼差しを返している。 祖父はにやりと微笑んだあと、すぐに悩ましい顔つきになった。「うーん、せっかく二人が仲直りしたばかりだから、今回は断ろうかとも思ったんじゃが……。 どうやら、お相手が龍をえらく気に入っておるみたいでな」 腕を組み、考え込むような素振りを見せる。 ……どうせ格好だけだろうけど。「理解しかねるのですが、なぜ私がお見合いを? 私にはお嬢がいるのですよ?」 龍の表情と口調に、少し鋭さが混じる。「うん、わかっとる。しかしなあ……言いにくいんじゃが、また相川さんなんじゃよ」 あっさりと衝撃発言を繰り出しながら、祖父はくったくのない笑顔を浮かべた。 私と龍は、思わず祖父を凝視する。「相川さんって……あの相川さん!?」「そう、その相川さんじゃ」
夕日が辺りを優しく染めている。 風が吹くたび、ほんのり赤く色づいた木々たちが、さわさわと静かな音を立てた。 柔らかな光に目を細めながら、私は縁側に腰を下ろす。 すぐ隣に、龍の気配がする。 彼は私から少しだけ距離を空け、そっと腰を下ろした。「……」 「……」 しばらく、ふたりとも黙り込んでしまう。 静かな時間が流れ、家の前を通るバイクの音が、妙に大きく耳に届いた。「……夕日が、綺麗ですね」 やっと絞り出された龍の第一声が、それだった。 龍は気まずそうに下を向く。 絶対、私がまだ怒っていると思ってる……。「ねえ、龍」「は、はい!」 私が呼ぶと、龍はびくりと肩を揺らし慌ててこちらを見る。 視線がぶつかると、その瞳がゆらゆらと揺れ、不安と緊張が伝わってきた。 そんな彼の気持ちに寄り添うように、ほんのり微笑む。「私、怒ってないよ」「……え?」 龍は目を瞬かせ、ぽかんとした顔をする。 ほらね、やっぱり怒ってるって思ってた。「だって、私のせいだもん。 私の態度が、龍を不安にさせたんだよ。だから……あんなふうに」 その瞬間、あの日のことが蘇り、顔が熱くなる。「な、何をおっしゃるんですか! 悪いのは、私です!」 龍が勢いよく首を振り、顔を真っ赤にして叫んだ。「本当に申し訳ありませんでした……お嬢に、あんなこと……!」 そのまま、またうつむいてしまう龍。 ……気まずい。 また沈黙だ。 私は、ふうっと小さく息を吐き、口を開いた。「あのさ、私、別に嫌じゃなかったよ」「えっ!!?」 龍がぎょっとした顔で私を見る。 目を剥いて、焦って。顔がみるみる赤くなっていく。「そ、それは……どういう、意味でしょうか?」